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【大女優】美空ひばりデビューは難産だった!?

ミュージシャン【ネタ】 この記事は約 3 分で読めます。 35 Views

通算八千万枚のレコード売り上げ実績を持ち、歌謡界で41年間『女王』の座を維持し続けた美空ひばりは、類いまれな天才です。でも、彼女のレコード界へのデビューは難産でした。

【大スター】美空ひばりデビューまでの秘話

 

1937(昭和12)年5月20日に、横浜市磯子区の青空市場の魚屋の娘として生まれたひばり(本名・加藤和枝)は、まだよく口が回らないうちに百人一首を覚え、人の話をすぐ記憶するという天才児でした。6歳の時、軍隊に入営する近所の人を「九段の母」を歌って励ましたといいます。戦後、音楽好きの伯父が青空楽団(アコーディオン・ギター・ヴァイオリンの三名)を作ったので、時々その伴奏で歌っているうちに、「歌わせてくれなきゃ死ぬ」というほどの歌好き少女に成長しました。

初舞台を踏んだのは46年9月、横浜のアテネ劇場。この時、劇場幹部の福島通人は彼女は大成すること間違いなしとひらめき、マネージャーを引き受けました。そして12月に、『NHK素人喉自慢大会』に出場して奈良光枝のヒット曲「悲しき竹笛」を巧みに歌い、当時はチビッ子の歌う流行歌は珍しいので、満場を沸かせました。が、この奇妙な出場者に審査員たちのほうが面喰い、審査基準がないので首をかしげ、結局は、ゲテモノ扱いをされて鐘は一つしか鳴りませんでした。

父親の増吉は芸能界入りに猛反対しましたが、母親の喜美子は大乗り気でした。何とかしてレコードを出そうと、母と娘は当時あったレコード会社を片っ端から回ったのです。

47年、当時のトップスター岡晴夫が「子供ということを別にすれば、歌のうまさは天下一品」と、自分が専属しているキングレコードに推薦しました。キングはオーディションをして討議した結果、賛否両論に分かれましたが、結局「たとえ一発は当たっても変声期ですぐ駄目になる。当社は子供で流行歌の商売をするほど落ちぶれていない」との結論。岡晴夫の手前もあって、和田寿三ディレクターを横浜の自宅まで走らせ、丁寧に断りました。

しかし、母親はひるまず、今度はビクターのテストを受け、由利あけみの「長崎物語」を歌いました。大作曲家の中山晋平と東辰三の二人が立ち会いましたが、「こましゃくれた小娘だ。子供なら童謡を歌ったら?」と、ここでも不採用でした。

48年春、浅草国際劇場で開催された「テイチク祭り・歌の祭典」では、ディック・ミネや三味線豊吉の推薦で「星の流れに」を歌っています。11歳の彼女が、病欠した菊池章子のピンチヒッターで出演したのですが、「こんな女に誰がした」のフレーズの意味が判らぬと母に質問しました。母は「お嬢とお母さんが、やむを得ない理由で別々に暮らすことになったらとても悲しいでしょう。そんな悲しさよ」と、アドバイスしました。うなずいたひばりは、舞台にでると感情いっぱいに歌い、お客はびっくりしましたが、この無名の少女歌手をテイチク側は見向かなかったといいます。49年1月、有楽座の「コロムビア祭り」に出演した時、伊藤正憲文芸部長(後の日本クラウン社長・故人)が、「こどもがこどもの歌を歌うのは当たり前、商売になる素晴らしい魅力がある、おもしろい、やろう」と乗り出し、日本コロンビアの専属に迎えました。そして同年7月、霧島昇の「楽しいささやき」の裏面、「河童ブギウギ」でやっとデビューのチャンスをつかんだのです。

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