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【楽聖】ベートーベンの素顔とは!?

クラシック【ネタ】 この記事は約 6 分で読めます。 28 Views

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン(1770年~1827)は、ドイツでもフランスに近いボン市に生まれました。祖父のルートヴィヒはオランダ人で、ボンに来て選帝侯宮廷礼拝堂の楽長となり、父も同じく歌手になりました。父はベートーベンをモーツァルトのような天才ピアニストに育てようとしましたが、アルコール中毒だったこの人は、気まぐれでデタラメでした。しかし、1779年にボンに来たオルガニスト、ネーフェ(1748~98)がベートーベンの非凡ば才能を認めて教育に力を入れたため、数年後には教会の代理オルガニスト、管弦楽団のハープシコード奏者を務め、作品も発表するようになりました。

87年、ヨーロッパ文化の中心地ウィーンに出てモーツァルトに会ったりしましたが、母の急死により2週間で打ち切られ、ボンに帰ってアルコール中毒の父と幼い弟二人をかかえて、苦しい4年間を送りました。

92年ワルトシュタイン伯爵の援助で再びウィーンに出て、ハイドン、シェンク、サリエリ、アルブレヒツベルガーなどに学びました。彼は初めピアニストとして有名になり、特に即興演奏では全く並ぶ者がなく、貴族の間で賞賛されました。

1800年、輝かしいさ創作活動に入ったばかりのベートーベンは、耳の病がひどくなってウィーン郊外のハイリゲンシュタットで静養しますが、悪化するばかり。絶望した彼は死を決意して、1802年10月6日二人の弟に宛てて遺書を書きました。しかし、強烈な創作欲と意志力が死を克服して創作活動に全力を注ぎ、名作を次々に生み出しました。その作品は自由さを増し、強烈で雄大になる熱と力に溢れてきました。

交響曲第3番変ホ長調作品55『エロイカ』は、かねてから尊敬していたフランスのナポレオンに捧げようとして作曲し、〇4年に完成しました。この頃はまだ標題をつける習慣はなかったのですが唯一これには命名しています。ところが、ナポレオンが自ら野心のとりことなり皇帝になったのを知って激怒し、献呈をとりやめ、「ナポレオンのために」と書いてあった楽譜の表紙を破り捨ててしまいました。翌年4月、楽譜の表紙を「英雄行進曲―ある偉人の思い出のために」と書き変え、自分自身が指揮をしてウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で発表しました。第2楽章は英雄のための「葬送行進曲」として名高いところです。当時のヨーロッパはナポレオンの軍隊に掻き廻され、ウィーンも〇5年と〇9年に占領され、ベートーベンのパトロンである貴族たちがウィーンを逃れたため生活は苦しくなりましたが、14年ナポレオンが敗れ、ベートーベンの名声は絶頂になりました。ところで、ピアノ協奏曲『皇帝』という名曲がありますが、この曲が作曲されたのは〇9年、オーストラリアがナポレオンによって占領された時期です。ナポレオンに対してひどい憤りを抱いていたベートーベンですから、これもナポレオン皇帝を意味するものではありません。もちろん「皇帝」はベートーベンによる命名ではありません。貴族の援助という基盤は失ったものの、それがかえって作曲家としての自立の意識を高め、次々と名曲を発表し始めます。

一方、養育していた甥のカールが絶えず面倒なことを起こして、ベートーベンを悩ましました。また、耳は全く聞こえなくなり、眼病や胃病なども彼を苦しめました。この時代の作品は内面的で深刻さを増しています。9つの交響曲の中でも一番素晴らしいといわれている第9番『合唱つき』は彼が54歳の24年に発表されました。第4楽章の合唱のところは、耳の聞こえぬ彼が天国の音楽とはこんなものだろうと心に感じたことを、余すところなく書きあらわしています。もし、耳が聞こえていたら、こんな気高い美しい音楽は書けなかったのでは?といわれています。

26年の秋、甥をつれて弟のヨハンを訪ねたが、感冒をこじらせウィーンに着く早々肺炎になり、水腫も発症しました。27年3月26日の夕方、雷鳴を伴った吹雪の日に生涯を閉じました。彼は56年の人生の中で79回も引っ越しをしました。悲劇的な運命の中にあって、猛烈な努力に努力を重ね、9つのシンフォニー、32のピアノ・ソナタ・17の弦楽4重奏曲、オペラ『フィデリオ』、ミサ曲など芸術的な作品を多く残し、今でも世界の人々に広く親しまれています。

生涯独身を通したベートーベンですが、結婚まで考えた恋人は何人かいました。1801年頃に作曲されたピアノ・ソナタ第14番『月光』は、伯爵令嬢ジュリエッタ・グィチャルディに献呈されています。この曲の美しさのために、そして美しい女性に献呈されていることから多くの俗説に包まれています。ベートーベンはこの作品が作られた1801年ジュリエッタに熱烈な恋をしていました。この時ベートーベン30歳、ジュリエッタ16歳。彼女はベートーベンのピアノの弟子でした。年齢の開きもさることながら、伯爵令嬢と音楽家、身分の違いはいかんともしがたい。けれども自由を強く憧れるベートーベンは、身分の壁を乗り越えて結婚したいと思ったようです。しかし結婚はできませんでした。こんないきさつから、『月光』には、ジュリエッタへの熱い想いが込められていると想像されますが、ここにも別の事実が入り込んできます。実は、この曲、ジュリエッタのために書かれた曲ではなく、予定した曲を別の人に献呈したための代わりの曲というわけです。また、『月光』の名も、さる詩人の「ルツェルン湖の波の上で月光を浴びている小舟のよう」という印象評から名付けられたということです。ところでジュリエッタ・グィチャルディにピアノを教えていたのはブルンスヴィク伯爵の屋敷です。(現在のハンガリー、ベートーベン記念館になっている)ブルンスヴィク伯爵にはテレーゼとヨゼフィーネの美しい姉妹がいて彼女たちもピアノ・ソナタ第24番嬰へ長調を献呈し、婚約もしています。この夢のような不思議な音楽ピアノ・ソナタの贈りものに感謝したテレーゼは、自画像の油絵を贈り、その裏に「たぐいまれな天才、偉大な芸術家、よきベートーベン」と記しました。『情熱』ソナタを作った後、しばらくピアノ・ソナタを書かなかった彼ですが、〇9年になってはじめて優美でほのぼのした詩情に満ちたこの曲を書きました。しかしこの婚約も〇6年から4年続いた後解消されます。ジュリエッタはこの二人の仲に割って入ったような形で、またブルンスヴィク姉妹と違ってコケティッシュでおきゃんな女性だったようです。妹娘ヨゼフィーネは大人しい女性でしたが、のちにダイム伯爵がなくなった後この人もベートーベンと親しい仲になったということで、ベートーベンは決して孤独ではなかったようです。この頃のベートーベンは生涯で最も幸福な時期にあって創作力は充実していたし、技術的にも最も円熟の境地にありました。

 

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