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『東京音頭』『鹿児島小原良節』前奏が同じ理由があった!?

音楽知識【ネタ】 この記事は約 3 分で読めます。 137 Views

「鹿児島小原良節」のルーツにはいくつかの説がありますが、ここではその詮索を棚にあげます。大正時代には一六という土地の芸妓がよく歌ったため、「一六節」と、呼ばれ、昭和の初め鹿児島市内で盛んに歌われるようになって「小原良節」と改められました。民謡復興の波に乗って、1933(昭和8年)12月、鹿児島出身の芸者歌手・新橋喜代三の歌唱でポリドールから発売されるや、名古屋あたりからバカな売れ脚がつき、ポリドールでは創業以来の大ホームランになり、喜代三はこれで一躍スターの座を占めました。

これより先の31年春、鹿児島商工会議所では国産振興博覧会を開催し、その景気づけに新民謡を作ろうとの声があがり、創作を依頼された中山晋平と西條八十の二人が招かれて鹿児島市に出向いた時のことです。地元の綺麗どころを集めてもてなしの宴席が張られ、土地の民謡をいろいろ披露しました。晋平が一番気に入ったのは、美声で売っていた南検番の名妓・喜代治が歌った「小原良節」です。八十が「鹿児島小唄」「鹿児島夜曲」の作詞に追われている間、晋平は喜代治から「小原良節」を習い、彼女は自ら手をとって教えました。だから三十三年六月に発売された中山晋平作曲の大ヒット曲「東京音頭」の前奏に、この時教わった「小原良節」の三味線の手がそのまま流用されたのです。

晋平は「きみをこのまま鹿児島に埋めてしまうのはもったいない」という話になって、彼女を上京させる決意を固めました。そして喜代治が晋平を慕って東京に住みついたのは三二年、31歳の時でした。晋平は彼女を新橋検番にあずけ「新橋喜代三」の名でお披露目するようはかったのです。でも晋平は自分が専属していたビクターに喜代三が出入りするのをいさぎよしとせず、八十に口ききを頼んでキングやポリドールで録音を始めたのでした。「東京音頭」から六か月後に発売された「鹿児島小原良節」の前奏は「東京音頭」と全くメロディーになりましたが、これがうまく相乗効果をあげました。その上、喜代三の鹿児島訛りの歯切れのいい体当たり的唱法が大衆の共感を呼び込みました。当時は満州事変が起こって間もない軍靴の響きが高まる暗い時代だったので、南国らしい底抜けに明るいこの歌に大衆が飛びついたのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

喜代三は三十七年十一月の「幕末小唄」を最後に歌手を引退し、同年十二月、先に夫人を亡くしていた中山晋平夫人になって世間をあっと言わせました。六十三年、癌のため死去、60年の人生でした。

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